戦国時代の山城「白巣城」

安宅八家衆の城のひとつ

白巣城は淡路島の凡そ中央に位置し、先山山系の標高三百十七メートルの高峰白巣山に構えられた、周囲険阻、又とない要害無比の地で、戦略上最も重要な典型的な砦です。
戦国時代の山城で、淡路島の有力国人であった安宅(あたぎ)氏の居城であったといわれており、安宅八家衆の城のひとつに数えられています。天正9年(1581)に羽柴秀吉の淡路攻めの際に、秀吉軍の火責めにより炎上し落城したと伝えられています。
堀切、土塁、竪堀(たてぼり)などの遺構が良好な形で残っています。また本丸・東の丸・西の丸、米倉などが堀切などにより郭(くるわ)として独立しており、往時の姿を見ることができます。
淡路島の戦国時代を語るうえで欠くことのできない、淡路島内を代表する山城です。
室町末期頃より戦国の風雲急を告げる時、外部勢力との抗争に利用するため築城されたと考えられています。「味地草」に「古記に云う、白巣城は足利の末、安宅九郎左衛門冬秀ニ、三代居住すと・・」記されており、当時の状況から想像すれば、足利将軍義稙が大永一年(1521)淡路に走ってからのものと推定されています。しかしはっきりした根拠はなく、古誌式は伝説によると、城主は安宅九郎左衛門冬康公で、今から約四百年前の天正九年(1581)一月に羽柴筑前守秀吉の淡路征伐により亡ぼされたと伝えられています。
時に、淡路の各城主は皆降伏しましたが、冬康公只一人が従わず、秀吉の軍勢が攻め登らぬよう城の登り坂に、竹の皮を敷きつめ勇敢に戦ったが、秀吉軍はこれに火を放ち、城を焼き討ちにしました。城主冬康公は、もうこれまでと覚悟を決め潔く火中に身を投じ、自害し果てたと伝えられています。
白巣城の城郭は中世後期の築城です。山上の天嶮を巧みに利用した砦で、城郭は白巣山の丘陵上を削平し、大小十五の台地を造り、それに空掘りとか土塁を構えていました。台地の主なものは、本丸、東ノ丸、西ノ丸、馬責場、馬繋場、米倉、物見台等で櫓が築かれていたようです。
白巣城がある五色町三野畑は高い山々が峰続きとなったなかに盆地状となった村中を通りぬけていくことになります。
駐車場からはすぐに頂上までたどりけます。坂道をあがると左に東の郭、左に馬繋場があり、その先には本丸、そしてさらにその先には西ノ郭が「く」の字のように展開された形になっています。また、それぞれの郭には土塁や掘切などがみられます。

問合せ先 ひょうご観光本部

HP