赤松氏播磨の拠点「河合城」

別名「掘殿城」とも呼ばれ、室町時代の播磨守護職であった赤松氏の東播磨の拠点として築城されています。

嘉吉元年(1441)の「嘉吉の乱」の時には、赤松満祐が将軍足利義教の首をもって入城したことでも知られています。東西約四百メートル、南北約三百メートルの城域を有する東播磨屈指の大城郭でしたが、ほ場整備事業等により、その景観は失われています。主郭部は「源氏屋敷」とよばれ、土塁と掘が巡っていました。さらに掘の外側には、東の郭と西の郭があり、三つの郭から構成された平城であったようです。

『河合城跡案内板』より

赤松氏の本城として機能していた大城郭ということです。堀井城や小堀城と水路でつながっていたそうです。 現在は完全に畑や田圃のなかにうもれてしまっていますが縄張りやその規模はよく把握することができるようになっています。現在は土塁跡が現存していますが、3城をつないでいたとされる水路も見ることができるのでそれだけでも感動できると思います。

問合せ先 ひょうご観光本部

HP