官兵衛の妻・光(てる)の実家「志方城」
現在、本丸跡に観音寺があります。

志方城は市易城とも呼ばれ、城の規模は現在の観音寺の境内を本丸とし、本丸を囲む内堀の周囲に二の丸(志方小学校所在のあたり)西の丸(旧志方町役場所在のあたり)とかなりの規模の城でした。
城主、櫛橋家は藤原氏の末裔で伊朝を元祖とし代々赤松氏の家臣で、伊朝より5代の孫、櫛橋左京亮則伊は、赤松政則に仕えて大いに重んじられました。祖父の例にならって播備作3国の財産出納の役をつとめ、文明13年(1481)志方・天神山に城を築き、明応元年(1492)この地に志方城を築きました。以来伊家、伊定と父子3代80年間続きましたが、天正7年7月16日の神吉城落城の直後、織田信忠軍により攻略され、同年8月10日羽柴秀吉が神吉城とともに、あとを請けとりました。
櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の居城で官兵衛の妻・光(てる)の実家で、光は小寺政職の姪にあたります。伊定が三木城の別所方についたため、天正6年(1578)に織田信忠軍に降伏し開城しました。現在、本丸跡には観音寺が建っています。
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