宝塚市内では数少ない城跡「小浜城」

小浜城跡は、本願寺の僧善秀が明応年間に建立した毫摂寺を中心とした寺内町として発展した集落と言われています。

歴史・背景

小浜城は、軍事拠点として利用されたことはほとんどないようですが、小浜集落の立地条件やその極めて高い防御性は城跡と呼ぶにたるものをもっています。
この地が戦乱に巻き込まれたのは、天正六年(1578)の有岡城の戦いの時になります。この荒木村重の反乱により付近の集落が焼かれました。同八年に有岡城が落城した後は、小浜の地は池田信輝(恒興)、之助・輝政父子が領有した。同十一年には池田氏が美濃に移封されると、尼崎城の三次秀次(のちの豊臣秀次)が領有し、その後は秀吉の蔵入地になったとされています。
江戸時代になってからは宿場町として栄えてゆくことになります。

『ひょうごの城紀行(上)』神戸新聞総合出版センター刊参照

このお城ののみどころ

宝塚市内では数少ない城跡である小浜城ですが、現在は宿場町跡として整備されているような印象です。 さて城跡はというと北門、南門、東門が櫓台らしき高まりとともに残っており、西から南にかけては外周を大堀川がめぐらされています。また土塁や切岸を施し城郭都市としての様相をそのままに今に伝えています。北を走る中国自動車道の下をくぐった先にこんな城跡が残されており、そのギャップに驚かされます。

問合せ先 ひょうご観光本部

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