稲葉川を天然の堀にする「楽々前城」(ささのくまじょう)
南北朝期から戦国末期の遺構まで存在する城跡

楽々前城は山名氏の家臣で、山名四天王のひとりとされる垣屋隆国の居城として知られています。隆国のひ孫にあたる垣屋続成の代には此隅山城の山名政豊を攻めるなど関係は悪化していたようで、1512年(永正9年)に続成が西方の鶴ヶ峰に新城(鶴ヶ峰城)を築いて居城を移すと、その後は支城として機能したようです。1569年(永禄12年)、織田信長の命により羽柴秀吉が但馬に侵攻すると、垣屋光成は降伏して、鳥取城攻めにも参陣しています。鳥取城落城後には因幡に所領が与えられたため廃城となりました。但馬地方でも最大級の規模を誇り、現在城址には土塁や堀切のほか、畝状竪堀などの遺構を確認することができます。